大津市歴史博物館

展示・イベント

近世


天下統一への道

 織田信長と豊臣(羽柴)秀吉は、戦国の乱世に終止符を打ち、天下統一への地盤を固めた名将として知られる。彼らはともに近江を拠点とし、とくに大津の地を重視した。信長は元亀2年(1571)、山門(延暦寺)を焼き打ちし、坂本に築城。安土城とともに天下統一の拠点としたが、天正10年(1582)、本能寺の変でその夢はついえ去る。秀吉は再建なった坂本城で、信長亡き後の天下を納める政策を打ち出すが、やがて大津に城を移し、大津百艘船を結成、湖上交通の支配を天下取りの足かがりとした。


大津籠城

 天正14年(1586)頃、豊臣秀吉によって城は坂本から大津に移されるが、秀吉没後の慶長5年(1600)、天下の覇権をかけた関ヶ原合戦において、当時大津城主であった京極高次は徳川家康方(東軍)に味方した。同年9月、関ヶ原に向かう西軍の毛利軍1万5千は、逢坂越で大津城を包囲した。守兵3千余の高次方は、毛利軍の猛撃によく耐えて籠城、総攻撃から7日目の9月15日、ようやく開城し城を退去した。ちょうど、関ヶ原合戦のその日であった。高次の籠城戦は、西軍の大軍を足止めし、東軍を勝利に導く大きな役割を演じたのである。

毛利秀包感状
 本館蔵(故:林屋辰三郎氏寄贈)


収蔵品紹介:毛利秀包感状

湖西・湖南の村々

 稲作を中心とした農業社会では、農業用水の確保は不可欠の条件であった。そのため用水をめぐる争論は各地で頻発していた。それは生活権を賭けた深刻な問題だったのである。農民たちはそういった争論を戦うだけでは無く、溜池の開削も積極的に試みた。その一方で、山の権利も、刈敷肥料としての草木や燃料を採取する当時の農民たちにとって、重要な問題であった。


大津ゆかりの画家

 大津を舞台に活躍した画家は多いが、ここでは3人の画家を中心に紹介する。まず写生画法の創始者にして、18世紀京都画壇の大家として著名な円山応挙(1733〜95)は、明和年間(1764〜72)頃、円満院門跡祐常の招きにより大津と縁を結ぶことになった。大津での応挙の活動は8年間と短いが、応挙から30年を隔てて大津の地を踏んだ紀楳亭(1734〜1810)は、石川町長寿寺(長等一丁目)の僧龍賀の招きで来津、大津の町衆と交わり、描く画に「湖南九老」と記した。また放浪の画家として知られる横井金谷(1761〜1832)は、晩年、比叡山麓の坂本に住み、作画三昧の生活を送った。


歴史事典:紀楳亭横井金谷

大津の学問

 儒学系統では、江戸時代前期に大津に住んだ若林強斎や、その学統を継ぐ上原立斎、幕末に大津で私塾を開き尊王攘夷運動に活躍した梅田雲浜、近江聖人中江藤樹に師事した熊沢蕃山、漢詩人では「湖中の詩僧」と称された北比良の佐々木梅巌、南比良の中村淡水らがいた。また実学の分野では、早く元禄時代に近江の地誌『淡海録』を編さんした原田蔵六、次いで『近江輿地志略』の大著をものした膳所藩士寒川辰清、異色な人物では日本の考古学の草分けとして著名な木内石亭がいた。


歴史事典:熊沢蕃山

幕末の動乱

 嘉永6年(1853)の黒船来航は、長らく鎖国政策下にあった幕府を始め、朝廷・諸藩大名から庶民に至るすべての階層に大きな衝撃を与えた。これを契機に、開国か攘夷か、尊王か佐幕かの議論が沸騰し、政治の中心地京都に近い大津の地も、その渦にまきこまれていった。人々は「御札降り」に熱狂するとともに、不安の中で上洛する将軍や大名の行列を迎えた。戊辰戦争から明治維新へ、さらに大津県から滋賀県へと、人々はめまぐるしい変化の中で近代を迎えることになった。

膳所藩烈士こより字短冊
 本館蔵(高橋淳氏寄贈)

膳所藩烈士こより字短冊(部分)


収蔵品紹介:膳所藩烈士こより字短冊