大津市歴史博物館

展示・イベント

原始・古代(2)


古代寺院の造営

 飛鳥・白鳳時代になると仏教文化が芽生え、寺院が造営されるようになる。大津市内で出土する最古級の瓦は、穴太廃寺(あのうはいじ)出土軒丸瓦であるが、この瓦を使用した伽藍は見つかっていない。7世紀中頃には衣川(きぬがわ)廃寺が造営され、その後多くの寺院が建立されるようになる。穴太廃寺、崇福寺(すうふくじ)、南滋賀廃寺、園城寺前身寺院、大津廃寺、石居(いしずえ)廃寺などである。また、大津宮との関連が注目される山ノ神遺跡では、7世紀後半に土器類のほか屋根の大棟両端を飾る鴟尾(しび)の生産も行っている。

鴟尾(山ノ神遺跡出土)


歴史事典:穴太廃寺跡衣川廃寺崇福寺跡南滋賀町廃寺石居廃寺

近江国庁と周辺遺跡

 奈良時代、瀬田川東岸の瀬田地域には、古代近江の行政を統括する国府(こくふ)が置かれる。国府の中心となる行政施設が国庁(こくちょう)で、その周辺に国庁と関連する役所や役人たちの住居、官営工房などが配置され国府域を形成していたと考えられる。
 昭和38年度に国庁の中心部である政庁の遺構が全国で初めて発見され、古代の地方行政組織の実態を知る上で画期的な発見となった。発見された政庁は瓦積基壇(かわらづみきだん)の上に建つ4棟の瓦葺の建物で構成され、前殿(ぜんでん)と後殿(こうでん)を南北に置き、その左右に細長い脇殿(わきでん)を配置している。


歴史事典:近江国庁跡瀬田廃寺堂ノ上遺跡

田上・大石の杣

 古代の大津は木材の供給地、「杣」としての重要な役割も担っていた。田上(たなかみ)・大石(おおいし)の杣(そま)から木材が伐りだされたのは、古く藤原京時代にさかのぼる。伐採された材木は琵琶湖から瀬田川・宇治川・木津川と筏(いかだ)で輸送され、泉木津で陸揚げされて平城山(ならやま)を越えて藤原京まで運ばれた。さらに、この田上・大石の杣の木材が多量に必要となったのが、平城京に諸寺院が建てられる時で、特に東大寺建立に多量の用材を供給した。また、石山寺建立の木材も至近であった田上・大石の杣から運送された。


逢坂関の設置

 関は平安京を守るための軍事施設で、東海・東山道などの交通の要衝に三関が置かれ、天皇崩御など有事の際には、多数の兵士が派遣され、関を守った。逢坂関もその1つで、弘仁元年(810)の薬子(くすこ)の変の時、伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関とともに近江国逢坂関(おうさかのせき)が守られた。特に逢坂関は平安京の東の出入口に位置しているため、都を離れる人々の別れの場所となり、送別の感慨をこめた和歌が多く詠まれ、近江の代表的な歌枕の1つとなった。


歴史事典:逢坂関跡

最澄・円仁・円珍の事績

 延暦7年(788)、最澄(さいちょう)は比叡山中に薬師如来を安置する小堂を建立した。根本中堂の始まりである。最澄の宗教活動は桓武天皇に支持され、あつい庇護を受けた。やがて遣唐使に同行して唐に留学し、帰国後の延暦25年(806)に天台宗を開いた。
 延暦寺の教団としての基礎を築いたのは、最澄の弟子の円仁(えんにん)であった。円仁は比叡山の修行地としての横川(よかわ)を開創し、東塔(とうとう)・西塔(さいとう)の三塔の寺院組織を整備した。
 貞観4年(862)、円珍(えんちん)が園城寺の別当に任命され、同寺の復興に着手する。唐院を建立して唐から持ち帰った経典などを納め、園城寺を天台別院として多くの堂舎を建立した。


歴史事典:最澄円仁円珍延暦寺三井寺(園城寺)